来る8月23日〜9月1日、北九州市にてアジアではじめて車椅子バスケット世界選手権(ゴールドカップ)が開催される。 及川晋平さんは前回大会、2000年シドニーパラリンピックに続いて日本代表入りを果たした車椅子スポーツ界トップアスリートのひとり。「障害者スポーツの情報があまりにも少ない」と今の日本の状況を憂う一方で、「でも誰もやっていないから僕がこれから伝えられるのが楽しみ」という及川さん。お話を伺っているうちに、穏やかな眼差しの奥にある燃える情熱がじわりじわりと伝わってきました。
◆◆まもなく日本で初めて大きな大会が開かれます。
  そこで結果を出すにはどういうものが必要になってきますか?
友人を大切にしたり、仕事をしっかりやったり、日頃の行いじゃないですけど、普段から人間関係をきちんと築いていることが結局はコートに立ったときに充実感につながると思います。充実していれば、結果がどうであれ、充実した結果が出るんです。もちろん練習をするのは大切なんですけど。
◆◆目頃からきちんとして、というと漢然としたイメージですが
  具体的にはどのようなことを?
ひとつは、バスケットが楽しいものだ、ということを日本の人たちに伝えていきたいというのがすごいあります。日本って結果主義みたいなところがあって、車椅子バスケットの場合も、もともとはリハビリテーションの一環から生まれてきたスポーツなんですけど、突然それが結果を問われるようになってしまったんです。僕は車椅子バスケットを始めて1年目でアメリカに留学をしたのですが、アメリカにいるときはものすごくバスケットが楽しくて、でも日本に帰ってくると、このシュートを入れないと試合に出られないというようなギリギリの状況でした。
◆◆及川さんが発起人となって開催したスポーツキャンプもそのような思いから?
アメリカではいろんな楽しいことがあったけど、その中のひとつにキャンプがあったんですよ。そこには車椅子の選手が100人くらい集まって4日間ぐらい、ずっと練習をするんです。それが本当に楽しくて、ぜひ日本でもやりたいなあと思っていた。
◆◆そして、昨年の7月に札幌で初心者から
  トップクラスの選手が約50人集まり、実現されました。
最初はみんな不安そうな顔していたのが、最終日には全員笑顔に変わっていました。感動しましたね。僕には手に負えないところでたくさんの人たちが貢献してくれて大きなイベントを生み出すことができたんです。
◆◆それは及川さんの充実したいと思っている
  人聞関係がひとつの形になったということですか?
そうですね。同じような目標の人が何十人と集まって大きなイベントをつくり上げた。僕はそのひとつに関われたことで大きな力が生まれることがわかって、それがバスケットにつながると気づいたんです。例えば、相手が白分より遙かに強い選手たちで、僕がいくら頑張って何十点とシュートをいれても適わない。そのとき5人の力が相乗効果で大きな力になったとしたら、勝ちの可能性があるじゃないですか。世界と闘える自信になりましたよ。
◆◆現在は強豪チーム・千葉ホークスから移籍して、
  福島のアースというチームで選手兼コーチをしていらっしゃる。
移るとき、すごい悩んだんです。干葉はそれまでお世話になったチームだし、強いチームから無名のチームにいくことも不安だったし。でも、自分の本当にしたいことは、上を目指すことだけではなくて、いろいろな地域で様々な人々と一緒にバスケットボールをすること。「自分らしく」生きたいなと思って決断しました。
◆◆新しいチームは順調ですか?
今は人が変わっていく様子が楽しいです。みんなバスケットがやりたいってコートに来る。でもそんなにうまくなくて。それをなんとかして少しずつ達成していくと、うわっ、人間ってこんなに変わっちゃうんだって。そういうことにものすごくびっくりしています。楽しいというのがいちばんいいですね。一番強くなるし。それに選手としての自分の理想もつくり出せる。
◆◆選手としての自分の理想というのは?
誰にも止められない状況ですか。そういう瞬間があるんですよ。シュートがこう「スポッ」と入るんです。わかります?ボールが手から離れる瞬間からもう、たまらんですよ。そんなんが2、3回続いちゃうといつでもボールくださいって感じ。そういうときは僕、健常の人にも勝ちましたからね。アメリカでー対ーでやったんですけど、相手のおじさんは車椅子だからまあ、遊んでやろうという感じだったんですけど、もうボコボコに(笑い)。そういうときはゴールがでっかく見えるんですよ。ダンクする感覚です。
◆◆及川さんの武器はスピードだと聞きました。
僕は高さがないので。一時すっごい筋トレをしました。車椅子を軽量化したり。車椅子って精密にセッティングするとものすごく軽くなるんですよ。重心をコントロールできるので、1,2ミリとんとんと変えただけで推進力が生まれたりして。栄養学もどうやって食事をとれば体ができるのか、疲れを残さずトレーニングできるのか勉強して。アメリカではテニスでもバスケットでもプロがあるんですけど、その人たちはすっごいスピードなんですよ。笑っちゃうくらい。スピードは大きな武器ですね。2メートルの人が相手でも抜けますよ。
◆◆体づくりの点で気を付けていることはありますか?
体全体のバランスを考えてトレーニングしています。実は足がすごく必要なんですよ。片足で接触すると体のバランスが必ず崩れるので、腹筋や背筋を鍛えたり。結局偏りが故障につながりますからね。それと肩胛骨周りとか硬くなってしまうので、ストレッチは人一倍やっています。
ひとつひとつの人の
つながりが大きな笑顔を生む。
そんな人間関係をつないでいけるような
人生を送っていきたいですね。
車椅子バスケットに出会い心が軽くなった
◆◆車椅子バスケットとの出会いはいつですか?
僕は中学・高校とバスケットをやっていたんです。で突然、高校1年の冬に骨肉腫というガンにかかりまして。寝たきり5年ほど過ごしたんですけど、それでもバスケットのことは好きで。そんなとき、たまたま千葉のチームから練習を見に来ない?って誘われて。そのときシュートを打ったんですね。そしたら「スポッ」って入ったんです。なんかもう気持ちよくて。そういう感覚というのは病気をして以来ひとつもなかったんです。義足をはいて、社会で障害者とわからないように、迷惑をかけず生きていくことばかり考えていたんで。でもそういう自分はウソだったんですよ。車椅子バスケットをするときは、義足も外して、自分の本当の姿で思い切ってやれる。足がなかろうが、車椅子だろうがどうでもいいと。
心に気持ちよさと軽さがありましたね。
◆◆車椅子バスケットをすれば日本代表入りし、アメリカヘ留学したり、
  キャンプを主催したり、チームを立ち上げたり、その行動力はどこから来るものですか?
母親のことが大きいですね。僕が退院するのと同時に母親は病気になって死んでいったんですけど、ずっと献身的に看病してくれていて。
自分を押さえつけていた時代があったんですよ。でも、(母親に)申し訳なくて。うじうじ生きているのがね。
母の死が思いきって行こうという気持ちにさせてくれました。人の死って果てしないエネルギーを与えるんですよ。悔しい気持ちだったり、悲しい気持ちだったり、何とかしなきゃって気持ちだったり。その力を絶対使うべきだって思いましたね。
◆◆夢をお聞かせください。
(先述の)キャンプをやったとき、僕大泣きしちゃったんです。みんなの笑顔を見て。ひとつひとつの人のつながりが大きな笑顔を生む。そのときに、あー、こういうことをやっていきたいなってすごく思いました。僕の人生って山あり谷ありなんで、まだまだ至難はあると思いますけど。でも、バスケットを通していい人たちと出会っているんですよ。
その人たちがつながって、そのつながりを大切にしながら生きていきたいなって思います。そしてそれを楽しみたいですね。
及川晋平さん

いかわ・しんぺい/1971年干葉県生まれ。
92年牽椅子バスケットと出会う。同年、チーム干葉ホークスにて日本選手権優勝。94年米国エドモンド大学へ留学、96年フレスノ私立大学入学し、98年卒業。02年干葉ホークスから福島「TEAMEARTH」へ移籍。現在は選手兼コーヂを務める。また、スポーツドクターを中心に構成された新しいスポーツと新しい医療の躍立を目指す『エミネク□ス』メディカルセンターでスタッフの一人として様々な事業の運営を行っている。さらに来年「チームエミネクロス」設立にむけて準傭中。
問/TEL 03-5474-3755

Copyright (C) 2000 EMINECROSS MEDICAL CENTER. All Rights Reserved